神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)
レビュー ![]() 標準的な口語訳にして名訳
平川訳は『神曲』の現代口語訳としては、最も標準的な訳といっていいだろう。原典を尊重しながら、とても読みやすい訳になっており、万人向けである。言葉も生き生きして躍動感がある。有名な冒頭部を引用しよう:
「人生の道の半ばで 正道を踏みはずした私が 目をさましたときは暗い森の中にいた。 その苛烈で荒涼とした峻厳な森が いかなるものであったか、口にするのも辛い、 思いかえしただけでもぞっとする、」 文庫化されて入手しやすいものとしては、ほかに集英社の寿岳訳、岩波の山川訳がある。寿岳訳は、現代語にわざと古語を散りばめた特殊な訳である。これも冒頭部を引用する: 「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。 ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!」 「ますぐ」(「まっすぐ」ではない)「げに」「すごさ」あたりはまだしも、「こごしさ」となると理解できないだろう。それでもこの冒頭部はまだわかりやすいほうだ。 岩波の山川訳は文語であり、現代の読者には読み通せないだろう。 通読できる訳
山川・寿岳両氏それぞれの、ダンテへの畏敬の念に満ちた訳業には感銘を覚えるが、いかんせん通読は難しい。
「神曲」は当時の平明な言葉で書かれているそうだから、訳文も現代語がふさわしい。 平川氏の訳文は、実に読みやすく、この「喜劇」(ダンテがつけた原題)の、変化に富んだ面白さを十分に味わうことができる。 ヴェルギリウスの、力強く男性的な台詞がとても魅力的だ。 ダンテは自らの師を、同性愛者という理由から地獄の住人としながらも、なお威厳を失わない存在として描いている。その精神の自由さ。 平川氏の訳注には学識の深みが感じられます。
西洋版一大地獄絵巻です。悲惨を通り越して笑えます。でも34の地獄のあらゆるヴァリエーションが繰り返し繰り返し、語られますので、途中かなり飽きてきます。キリスト教の教理と中世のローマ史が分かればなおわくわくする楽しい地獄の旅になることでしょう。コメディーということですので、ダンテの諧謔趣味がモロ出です。グロですが、でもダンテは至ってマジです。なんかよく分かりません、はっきり言って日本人、とくに仏教徒には。けれどもその想像の構築力というのは舌を巻かざるを得ません。とにかくこの神曲、ダンテの自我というか復讐というか偏執的なまでに言語的表現を尽くしていく精神の強靭さは他を寄せ付けません。次の煉獄編、続く天国編が楽しみでもあり、苦痛でもあり(笑)、SとMのめくるめく陶酔が待っているのかも?
イスラム文学のダンテ『神曲』への影響
河出世界文学全集に所収されていた現代語による平川氏の翻訳はすごくありがたかった。より入手しやすくなったのは大歓迎だ。
高村薫の推理小説『照柿(上) (講談社文庫)』の冒頭に掲げられていたのも平川訳だ(「 人生の道半ばで 正道を踏み外した私が 目をさました時は暗い森の中にいた」あるいは高村版では「人生の道半ばにして正道を踏み外したわたくしは目が覚めると暗い森の中にいた」、、平川氏は推敲しているので版によって違う)。 http://iruka55y12.blog5.fc2.com/blog-entry-2.html さて、ダンテの『神曲』はイスラム教を侮辱していると言われているが(地獄篇28歌参照)、アヴェロエス(イブン・ルシュド)にも言及しているし(地獄篇5歌)、実際はイスラムの凖聖典ハディースのマホメット昇天後の夜の旅、アル・ミーラージュ(Al-Miraj)からの影響があるという(『現代アラブ文学選』創樹社p306)。 アシン・パラシオスという学者が1919年に著作で発表した説(英語版は以下、Islam and the Divine Comedy)らしいが、その指摘された影響源であるハディースには、ムハンマドの昇天、すなわち「夜の旅」は以下のように描写されている。 私の精神が上昇したとき、私は天国につれていかれた。私は天国の門の前に置かれた。天使ガブリエルが門のところにいたので、私は中に入れてくれるようたのんだ。ガブリエルはこう答えた。「私は神の召使にすぎない。汝、もし門が開かれることを欲するならば、神に祈れ」。そこで、私は祈った。すると神がこういわれた。「私は、最愛の者たちにだけしか門を開かないであろう。汝と汝にしたがう者は、私の最も 愛する者たちである」。 参考: 「スーフィー・イスラムの神秘階梯」ラレ・バフティヤルー著、竹下政孝訳平凡社 http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sufi-kig.html http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?hdn_if_lang=jpn&txt_docid=NCID:BA50160964 イブン=アラビーなどを参照するとさらにはっきりするが、これは『神曲』のコンセプトそのままであり、サイードの『オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)』などでは指摘されていないが、重要な指摘だと思う(日本では楠村雅子の研究がネット公開されているくらいだが)。 また、ヘーゲルなども遵奉するトリアーデは新プラトン派経由だが、むろんその前にアラブ系の学者たちの研究があるのは歴史的事実だ。 とはいえ、そしてこうした政治的な論争を超越してかつ世俗的(=身体的)なものとして『神曲』はここに屹立している。 ダンテが当時のイタリア語の口語で書いた脚韻を踏んだラップのような詩は、最高級のロールプレイングゲーム(イタリア語と英語ではウェブでいいサイトがあるが、ドレーの挿し絵とともにニンテンドーDSかPSPにできないか?)として現代語で読むのが今日、より相応しいと思う。 日本人にとっての「神曲」とは?
「地獄篇」34歌、そのそれぞれの歌の冒頭部分に訳者の平川先生が内容紹介を載せているが、これが実にありがたい。日本人ならここだけを読んでも「神曲? 読んだ、読んだ、地獄篇全部読んだ」と言い切っていいと思う。キリスト教世界に生活していない我々にとっては、内容のすべてを理解する事など、さらさら無理な話である。
ギュスラーブ・ドレのおどろおどろしい挿絵もなかなかいい。 地獄は、洋の東西を問わずいずれにもあるようだが、「地獄はダンテのフィクションだ」と平川先生が解説でわざわざコメントしているのはご愛嬌。 平川先生も古典落語のネタを引用して解説している箇所もあるが、「神曲・地獄篇」は、上方落語の「地獄百景亡者の戯れ」に合い通じるところもあり、なかなか面白い。 キリスト教世界にあっては、屈指の大傑作という事になっているが、イスラム教世界にあってはまさに「悪魔の書」である。その間のいきさつも含めた平川氏の「解説」が振るっている。 氏は、『イスラム教の始祖を地獄の底に堕とし、イスラム寺院を下地獄の悪の城に見立てている「神曲」を世界文学の最高峰と呼び続けることは、はたして賢明なことだろうか。』と言っているが、日本人読者としてまさに民主的な考え方であり、このように考えながら読むことが「神曲」の真摯な読み方・正しい読み方ではないだろうか。
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クリエーターは「ダンテ」「平川 祐弘」です。 この商品を買った人は他にも「神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)」、「神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)」、「恋愛指南―アルス・アマトリア (岩波文庫)」、「善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)」、「ファウスト〈第2部〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)」、などにも興味を持っています。 神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)
レビュー ![]() 「煉獄」という無理筋の場所が面白い
「煉獄」は聖書にほとんど記述がなく、プロテスタントはその存在を認めない。この世で小さな「罪」を犯したために、天国に直行するのは差支えがある人々が、天国に行く前に一定期間罪を贖う予備校のような所である。だから、煉獄の記述は難しい。天国に向かって立つ岩山が煉獄なのだが、業火に焼かれる地獄まがいの場所もあるし、美しい森もある。政争に敗れてフィレンツェを永久追放になったダンテは、かつての政敵を『神曲』の地獄で苦しめて私怨を晴らしたが、煉獄でも、フィレンツェの政治がらみの人物やダンテの友人などがたくさん登場する。煉獄には、エウリピデス、アンティゴネ、イスメネなどがいるが、地獄に比べると有名人は少ない。煉獄の人々は、「好色」「怒り」「嫉妬」「高慢」「浪費」「怠け」「大食」などの罪で責められているが、この程度のことは誰にでもあることで、咎められるほどの罪とは到底思えない。罰もかなり恣意的なので、煉獄篇は、「煉獄」概念の「無理さ加減」を大いに楽しめる。平川氏の丁寧な注も役立つ。ダンテは煉獄篇の最後で、最愛の人ベエアトリーチェに出会うのだが、その再会場面は妙に教訓的で退屈なのが皮肉。
天国はまだかあああああ
以下本文庫の裏カバーから。
「二人の詩人、ダンテとヴェルギリウスは24時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえるは煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。」 本篇には、西洋の古典的に有名な人名・地名がキラ星のように出てきます。しかし、平川先生の詳細な「注」のおかげで、読者は安心して読み進む事が出来ます。 西洋の古典翻訳を読むと必ずといって出てくるあの面倒くさい「注」。私は、今までは、この「注」が億劫でした。しかし、本書の「注」は、読んで嬉しく見て楽しいものになっているので、何ら苦にならないのです。とても読みやすくなっています。 地獄篇に続き、挿絵イラストが、またまたおどろおどろしくていい。 やっとの思いで地獄を越えたと思えば、煉獄の山々が続いている。ベアトリーチェの待つ天国までの道がこれほどまでに遠いものとは、とほとほ、とほほ、とほとほほ・・・・・。
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レビュー ![]() ユニークな神学的議論が面白い
『天国篇』は『地獄篇』『煉獄篇』とは趣が非常に違う。まず、天国といっても、地球を出発して、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星と宇宙旅行をするのである。そして、さらに外側の恒星天を越えて、その先に「至高天」なるものがあり、そこに聖母マリア、アダム、イヴ、ペテロ、アウグスティヌスなどがいる。プトレマイオスの天動説モデルに、聖書の神話を接ぎ木した奇妙な混合物といえる。選ばれた「聖人」やそのランク付けもかなり恣意的だ。「ビュリダンのロバ」の話も出てくる自由意志論など、神学的な議論が中心だが、ダンテもなかなか苦労している。天国では、肉体を持たない魂だけが存在することになっているので、登場人物は「光明=炎」と呼ばれる光の塊りになっている。だが、それでは姿かたちがはっきりしないので、聖なる魂たちは、「私は、・・・だ」と名乗ったり、「慈愛に満ちた眼差し」「清らかな瞳」「美しい声音」「愛に輝く」などと抽象的に描かれる。とりわけ面白いのは、肉体を持たない魂たちは、肉体の具体的な形態を見たいという願いをもっていることだ。「彼らの<アーメン>という声の中には、死んだ体をいま一度見たいという願いが強く現れていた」(第14歌、p184)。またダンテは、キリスト以前の人々はそもそもキリスト教徒たりえないのだから、どんな善人も自動的に天国から締め出されるのは不公平だという疑問をもっていた(p259)。だがこの疑問は、結局は明確に答えられない。平川訳は、最後の祈りの詩を上田敏訳を転用するなど、工夫がこらされている。
天国よいとこ一度はおいで?
地獄篇、煉獄篇ときて、ついにダンテは久遠の女性ベアトリーチェとともに天国へ! といいたいところだが、この天国がなかなか大変な代物、何しろ全部で10もある!!!。
月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天、以上の10の天国ときた。 わざわざ冒頭記載に注意があるように「地獄篇」「煉獄篇」と比べてこの「天国篇」は、メチャ難しい。最後の最後まで楽はさせてくれんわい。 本文は難しいが、平川先生の注釈がなかなか興味深い。これさえ読んでおけばいいとさえ思ってしまう。実際、本文は、我々日本人が理解するのは、まずもって無理。 一昔前の日本では、「天国よいとこ一度はおいで、酒は美味いし姉ちゃんは綺麗だ」と言われていたものだが、神曲の世界では、というよりはキリスト教の世界では、神様に会えるまでなかなか大変だ。日本では、八百万の神があちこちにいるので、これほど楽な事はない。つくづく思う。日本人で、よかった、よかった。 <ところで、巻頭のベアトリーチェの表情、ふっくらぽっちゃりで現役の頃のキャンディーズ・スーちゃんみたい。>
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