フリーランチの時代 (ハヤカワ文庫JA)
レビュー ![]() 取り回しの良さ。
相変わらずの小川一水的軽妙さが楽しめる。
もちろん、それを文字通り”軽い”ととるかは好みだろうが、読む側を作品世界に引き込むだけの魅力は十分。 腰を据えて読むというより、通勤・通学のともに。 表紙が卑怯すぎる
表題作はそこそこ。結局一番面白かったのが
ラストの一編で、時砂の王の番外編という感じ。 読み始めてすぐ「あっ、時砂の王みたい!」と ワクワクしてたらまんまそれだったという。 不老不死になっていく日本とか おお……!というアイデアはあるものの、 やっぱ「老ヴォール」が素晴らしすぎて。 あの感動の上を求めてしまう。 いや、でも日本SFここにあり!という感じで、 読んで損なし、いい時間を過ごさせてもらいました。 死なずにいることと、生きていること
小川一水の短編集です。収録させれている短編は5つ。
そのうち4の短編に共通したテーマは、「不老不死」ないし「生きていることの 意味」です。 不死を手にいれた人間が登場しますが、短編毎に不死の形態が異なっています。 ナノマシン、遺伝子工学、医療の進歩など実に様々な不死があるものだと関心し ます。しかも、そのすべてが科学的リアリティがあり、科学があとほんのちょっ と進歩したら実現しそうなだと思える不死ばかりです。 最後の短編は、「時砂の王」の外伝的短編です。 時を越えてETの掃討を続けるメッセンジャーは、不死であるともいえます。 ストーリのほうもピカイチです。ハードSFなんだけど、ラノベのように軽く楽しく読めてしまいます。 お勧めです。 今の私が消滅しても
「誓って以前のあなたと同じあなたよ」
これ、表題作の、火星の氷冠に生息していたエイリアンのセリフ。 侵食される前と後の主体の同一性はきっと証明できないと思うけど、とっても魅力的な一節。 昨日の私と今日の私が同じ私なのか、現在の延長をはるかに超えた技術の産物として脳を忠実に トレースして再現された私は私なのか、物質電送機のミスで電送先に再構成されてしまったもう一人 の私は私なのか、この私が死んでしまって再構成された私が復活しても、それは私なのか、チューリング テストをパスする中国語の部屋が、全体システムとして私の出力を真似し、それを私の知人や肉親が 私と区別できなければ、そのシステムは私なのか。 複数の分野をまたいで、非常に長く議論されるテーマですが、やっぱり私は、私とそっくりな反応をする 何物かがあったとして、それを私と客観的に区別できない、というところまでは同意できても、それはや はりこの私ではない、としか思えません(しかし、この私と、客観的にこの私と区別できない何かが、そも そも区別できるという前提すら疑問だったりして懊悩中)。 それでも、この私にとって私だと納得しているこの私が、今のこの私とは別の者になってしまうのであって も、それでも人間が人間の創り出す技術によって、この人間を超えて(倫理的方向性は不問として) 変化していくことに、積極的に肯定的です。 人間は、その限界も哀しさも愚かさも含んで、それで人間なのだというお話しを知らないわけじゃないけ れど(本当にその「愚かさ」をわかって言っているのか、とか軽くツッコんでみたりしつつ)、日々の平凡な 喜怒哀楽にこそ大事だという価値も非常に了解ではあるけれど、それでも、個人的には、人類が、当 の人類の産み出した技術によって、人類以外のものに変異していくことには肯定的。 表題作の他の作品にも、この「私」がこの「身体」やこの「社会」に依存しない・ないし支援されない場合 の思考実験に満ちているように読めます。 そんなことを普段から考えているわけじゃないけど、本書に無理矢理思い出させられ中。 これSFの醍醐味でございましたよ。 良し悪し分かれるところ
最後の1編が時砂の王の番外編。
それ以外は不死をテーマにした話。 今までのような派手さはなく哲学的なところが多いかな? 自分的には最後以外暇な話でした。
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クリエーターは「小川 一水」です。 この商品を買った人は他にも「風の邦、星の渚―レーズスフェント興亡記」、「不全世界の創造手(アーキテクト) (朝日ノベルズ)」、「天涯の砦 (ハヤカワ文庫JA)」、「妙なる技の乙女たち」、「時砂の王 (ハヤカワ文庫JA)」、などにも興味を持っています。 |