エディターレビュー
神秘的なヴェールに包まれてきた、20世紀を代表するロシアの大ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)。その通訳、親しい友人として、25年以上にもわたり巨匠の近くで素顔を見つめ続けてきた筆者による、興味の尽きないエピソード集。 たとえば、1981年からプーシキン美術館で始められたリヒテル主宰の音楽祭「12月の夕べ」に居合わせた著者による雰囲気の描写は非常におもしろい。リヒテルは室内楽やリートのコンサートであっても、会場のすべてを演出しようとする。コーカサス風の小刀で楽譜の封を切って空けてピアノを弾き出したり、休憩時間にはスタッフに「19世紀的な雰囲気をもって動作も会話も優雅に」するよう指示をしたり、会場中にゲランの香水ミツコを振りかけ、舞台上にはたくさんの蝋燭の灯りをつけさせたり…。
また、リヒテルの好きな男優は、無声映画のころの『ファウスト』のメフィストフェレスを演じたエミール・ヤニングス、トーキーになってからはジェラール・フィリップとブルース・リー(!)なのだという。リヒテルによればブルース・リーの肉体は芸術であり、ジャッキー・チェンの映画を絶対に観ない理由は「ブルース・リーへの冒涜になるから」というから笑える。女優ではマリア・カザレス、マレーネ・ディートリッヒ、アンナ・マニャーニ、イングリッド・バーグマン、ロミー・シュナイダーが好きだという。
こんな、思いもよらぬエピソードが満載なのだから、リヒテルの意外な素顔に読者はすっかり魅了されることになる。そして、夢中になって読み進めていくうちに、天真爛漫で何物にも縛られない自由な一人の人間リヒテルの日常生活のささいなディテールから、偉大な芸術の秘密と啓示を受け取るに違いない。(林田直樹)